ヘルパーを雇うプロフェッショナルのハンネさんに話を伺った。
ハンネさん の話
自己紹介
1952年生まれ。生後3ヶ月の時に小児麻痺になった。18歳まで病院やいろいろな施設で生活していた。当時の社会福祉政策は、できるだけノーマルにということが目的で、理学療法、自助訓練に力をいれていた。学業よりもリハビリに重きが置かれていたので、その結果、学校教育が不十分だった。18歳でエグモントへ来て、それが、人生の転換期になった。ここでは私の障害のことが関係ないし、ノーマルでなくても関係なかった。自分がどういう人間かということが大事で、潜在能力を使って、良い友だちと一緒になって生活する中で、自分でも成長していくことがわかった。ここで2年生活した。
オーレ(現エグモント校長)のお父さんの校長は、ある意味生きた証人だった(身体障害であっても、学校を経営することができるという)。ここに来なかったら、入居施設で生活しなくてはいけなかったが、私は、教育を受けて、RTの資格をとった。それだけでなくて保育士の資格を取得して、保育士として、学童保育所で20年仕事をした。また、劇団を作り、歌を歌って、それに合わせて他の人が踊るという劇を12年間した。劇団はプロ並みになった。劇団の良いところは、障害を持っていてもちょっとたいへんだけれどもいいんだ。人生一度しかないし。
専門治療士、ソーシャルワーカーなどいろんな専門家が劇団に関心をもってくれた。45歳になった時、肉体的な理由で仕事を辞めた。ところが、精神的にはまだまだ活動的だったので、どのようにできるか考え、教育ム講演をするようになった。また、コンピュータを使って本を書くようになった。その本は介助を受けるにはどうすればいいのか、という本。この秋にもう一冊体験をもとに、障害をもった子供達がよいスタートをできるように、どのように障害児に関わるかという本を書いた。現在の生活について
週84時間の介助で、2人の常勤ヘルパー、2人の非常勤ヘルパーを雇っている。仕事内容は、起きる介助、食事、出かけるなどなど。私は女王と同じだと人に説明している。1980年からパーソナルヘルパー制度を使っていて、
これまでに116人の人(臨時職の人も含む)を雇ってきた。
ヘルパーとユーザーの関係は相性が合うかどうか、密接な関係がないといけない。感情の中では、対等で、倫理観などが重要である。
関係は、バランスをとるのが難しい。どれだけつっこんだ関係になるか。お互いに機械のように扱ってはいけない。18年のリハは役にたったか?という質問に対して
「よいものだけではないし、悪いものだけではない。」という私の人生哲学からいうと、リハビリは当時のよいと思われていた。新しいものがどんどん考えられて、70年80年などは教育学的なものも重要だと考えられるようになってきた。なので「整形外科が発展するのに寄与してきた。」と考えれば役にたったと思っている。ヘルパーの条件
まず1つは、その人がどういう機能を果たすか。というのは、朝、誰かが起床の介助、庭の手入れをしなくてはいけないが、相性があわないといけない。
・ 常に注意深く自分の話を聞いてくれている人
・ 全体を見通すことができる人
・ 状況判断ができる人
・ ユーモアがある人
・ ヘルパー自身が良い状態で生活をしている人
(ヘルパーが問題を自分に持ってこないように)
・自立して生活しているので、人生価値を理解し、尊重してくれる人。
私は、牧師さんとかケースワーカー、心理士は必要無い。人間としてわかりあえる人が必要。劇で行われていることを一緒に楽しめる人がいい。例えば、アクション映画のみを楽しめる人と日本の映画は楽しめない。趣味が合う、性格が合う人がいい。
また、ヘルパーが自分のアイデンティティを置いてくる人だと困る。そうでなくて、そのままの自分できてくれる人の方が、葛藤や喧嘩もしないで長く続く。
他人の介助が必要な障害者は、行儀よくしなくてはいけない、つまり悲嘆ばかりして聞く方もたえられなくなってしまう。
社会的(個人的)な問題を抱える人を雇うと、ヘルパーを利用者が教育者としての教育しなくてはいけない。そこに時間をとられて、本当のしたい生活がおくれなくなってしまう。自立生活支援制度事態で改善した方がいいと思うこと
労働組合までのことは必要無いけれど、雇用条件を改善しなければいけないと思っている。今のところは経験による給料UPがない。有給休暇がない。育児休暇をとれない。労働時間が分かれた時(例えば、朝と夕で昼間はなし)、その間の時間の保障がない。その時の一般の賃金とそうしないとこれからヘルパーを見つけることが難しくなる。きちんとされていないと、邪魔な関係が入ってきてしまう。ヘルパーがちゃんともらっていないから良心がとがめる。ヘルパーも偽善になる。無関係なものが入る。劇団について
4人(2人が障害者)の劇団で12年続いたけれど子供ができたり、プロの役者になったりなどの理由で、廃止した。エグモントに来ることになったきっかけ
当時、全寮制の学校にいた。卒業したら、プライエム(入居施設に入る)ように言われたが、ホイスコーレに行ってもいいかなということになって、そんな時、エグモントの校長(オーレの父)が講演に来て決めた。ヘルパー制度がなかった当時、どうしていたか。
Odder市が4、5人を雇って介助してくれた。80名の障害者制度(2/3)車いす7名。軽い障害の人が多く、自分の軽かった。1969年に学校へ来た。70年代、障害者に関しては、車輪が回るようになってきた。障害者にとって良い、時代。エグモントに来た時、手動式の車椅子に乗っていた。そうしたら、校長がなぜ手動に乗っているのだと聞いた。電動車椅子に乗れるまでに訓練がいるからと答えたら、生命力をただそれに使っているんじゃないのかと指摘され、電動車椅子に乗ってみたら、新しい世界が広がった。それまでは人に車椅子を押してもらえるように頼まなければ行けなかった。移動するだけに力を使い果たさなければいけなかったのが、違う方面に使えるようになった。ヘルパーさんの話
採用された時の状況
2年半前に採用された。それまでは23年間、保育所で働いた。その時40歳で、50歳までも働きたくないと思っていた。そんな時、広告で見てきた。初めは、保育所で一時休暇をとって他の仕事もやってみようと思っていたけれど、それができなくって、辞めてきた。
今の仕事は、今の家庭生活にマッチしている。子供が保育所から帰ってくると家にいられる。
大休暇だとか、祭日など子供が家にいるときでなくてはいないけれど、そのような時は交代してもらえるからそれほど問題ではない。クリスマス
デンマークではクリスマスは家族で過ごすのが一般的なので、クリスマスの時は(同様に大晦日も)ヘルパーを探すのが難しい。夏の明るい時に話すようにしている。一昨年のクリスマスはヘルパーさんがいなかったので、代わりにヘルパーさんの家に行った。将来の目標、計画、夢など
人間、人がどうやってすごせるか、過ごすにはどういうしていけばいいかということがこれからの仕事、役割だと思っている。精神分析のセラピストの資格をとった。相談ワークショップを作った。絵を書いたりしながら悩みごとの相談にのる。トラウマがあって、他の人との人間関係が上手くいくような道具になる。
私の生い立ちを見ても、まわりの人が幸運でまわりの人がよかった。けれども、18歳まで厳しかった。やはり自分もセラピーを受けなければ行けなかった。自分が麻痺しないで、いろんなことに関与していけるようになったのは、セラピーがあったから。昔のうらみやねたみは人生のまひ、そうでなくって前にすすまなくてはいけない。幸せな人生は障害に関係ない。人生と言うのはあるものでなく、getするものだよ。